「うちの子」の命日でした(お見送りについて考える)
実家には、数年前まで、オスの猫がいました。
イチローさん。
いま、大リーガーのイチロー選手がまだ日本で新人だったころ。たくさんの賞を獲った年に生まれた子です。(イチロー選手が、非常に話題になっていたので名前をいただきました)
地域情報新聞で「うまれました」の広告を見て、譲り受けたのでした。
1994年生まれで、19歳で、2月19日に亡くなりました。
おそらく、鼻の奥に腫瘍があったのだと思います。鼻がずびずび言い出して、治らなくなりました。CTをはじめとした精密検査は家族が望まなかったので、確定診断はしないまま。
「鼻がおかしくなって、治らなくなったね」という話から、1年くらいでの、大往生でした。
看護というか、介護というか、も、家族が頑張りました。
当時は私は東京で勤務していたので、家族から状況を聞いて、薬を作っていました(確定診断がつかないままであることを家族が望んだので、目的は対症療法です)。
最後の冬には食欲が衰えていたので、私が実家に帰ってきた折に、家族に皮下点滴や給餌の方法を教えて、実施してもらっていました。
「うちの子」って、どんな亡くなり方をしても、悲しくて寂しいこと自体は、みんな一緒だと思うんです。
その子が長寿だろうと短命だろうと、闘病期間があろうとなかろうと、そんなのは関係ない。
でも、その他にどんな感情があるかで、「お見送り」に対する気持ちが大きく変わると思います。
それは、後悔が残るかどうか、だと、私は考えています。
大事にしている子がどんな死を迎えても、思い返して後悔することって、とても多いと思うんです。
でも、いろんな方のお話を聞いてきましたけれど、獣医である私の目から見ても、「飼い主さんが 全部悪かった」なんてことは、ほぼないのです。
それでも、後悔しちゃう。
それは、下手をすると、何年も癒えない心の傷に成り得ます。
私自身、高校生のときに亡くしたわんこのことを引きずってしまいました。その子の死をふつうに話せるようになるまで、ものすごく長い長い時間がかかりました。
最後にかかった動物病院の先生とのコミュニケーションが不足していたのかなと思うこともありますが、獣医になったいま、何が起きたか正確に理解したので、自分を責め続けるというループから脱却した部分もあります。
「うちの子」が若いときには考えにくいかもしれませんが、どんなに長生きしてくれても、人間よりは先に亡くなってしまうので、「お見送り」は必ずきます。
そのときに、すべての飼い主さんに、後悔のないお見送りをしてほしい、と、私は思うのです。
お別れのときには、「ごめんね」ではなくて、「ありがとう」と言ってほしい。
どの子もそれを望んでいるのではないかと思うのです。
私は、そのお手伝いをしていきたい。
「うちの子」の命日は、そんな気持ちを新たにした日でもありました。